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国産バーケル型スライサー
〈 国産バーケル型スライサー 〉

ワタナベフーマックの創業は1938年。創業当時の当社の主力製品は工作機械のフライス盤でした。現在のミートスライサーが本業となるきっかけは、実はオランダに所以があったのです。第二次世界大戦終戦後の頃、精米機やパチンコ台、オートバイ等、生き残る為に様々な機械の製造にトライをしていた創業者はある時、知人であった杉本精肉店さん(現スギモト食肉さん)が所有されていたスライサーの復元整備依頼を受けます。苦心の末に復元したその機械こそがオランダ製のバーケル・スライサーというものでした。当時の日本の食肉加工は手切りが主流でしたが、近い将来に機械化のニーズを予見した創業者は1947年、そのノウハウを生かして国産の第一号機を完成させます。そこから当社のスライサーメーカーとしての第一歩が始まったのです。

世界一周視察旅行
〈 世界一周視察旅行 〉

事業を進めるにあたり、比較的早い段階から海外展開を視野にいれていた創業者は、1963年に食肉業界団体主催の世界一周視察旅行へ参加し、西ドイツやアメリカなど欧米諸国の食肉マーケットを訪れて、海外展開への足掛かりとしていきます。

1968年 IFFA集合写真
〈 1968年 IFFA集合写真 〉

1968年、1972年と西ドイツで開催される欧州食肉業界最大規模の展示会「IFFA」への積極的な視察を行い、当時から様々な欧州メーカーと顔なじみになっていきました。
1977年にはフランスの地域社会の教育指導に対する貢献を認められて社会功労賞(三等社会功労栄誉王冠月桂冠奨励賞)を受賞するなどしました。

IFFAに初出展
〈 IFFAに初出展 〉

フランスにて社会功労賞を受賞
〈 フランスにて社会功労賞を受賞 〉

またその一方で、欧米諸国における自社製品の販売展開の準備として、とある日本の企業と共同出展の準備を進め、1977年同じく西ドイツIFFAへ初の共同出展を果たします。また、1980年にはアメリカのAMIという展示会にも出展。そうした海外展示会への出展を経て、1982年には、主力製品であるミートスライサー(WMB-JL)をフランスのソポロテック社へ15台輸出することができました。(※この時の「フランスのスーパー『ジャンボ』サビ事件」はこちら
時はまさに日本の高度経済成長期、積極的に推し進めていた海外展開の実情は、決して順風満帆とはいえませんでした。為替の影響や高度経済成長期での日本の人件費高騰などにより、当時の欧米製品に比べて約3倍以上も高額となってしまい、価格差で欧米製品にはとても対抗ができなかったのです。

1986年 台北市展示会
〈 1986年 台北市展示会 〉

そうした世界の経済状況により、1980年代からは海外展開に関しての視野を欧米からアジアへと向け始めました。お隣の韓国では朝鮮戦争休戦以降、急速に民主化政策が推し進められ、1988年にはオリンピック開催が決定。国としてのインフラ整備も加速度的に発展していった背景もあり、1982年ソウルで開催された国際総合機械展へ出展しました。また中国に先立ち台湾が既に開かれた市場となっており、1986年には台北市での中華民国第1回食品工業展へ代理店を通じての出展を果たしました。いよいよアジア市場への展開が開始されたのです。

韓国厚地工業株式会社にて
〈 韓国厚地工業株式会社にて 〉

韓国においては前述の展示会出展以降、韓国企業数社と代理店契約を結んで営業展開を行ってきましたが、食肉の消費スタイルの違いや現地の経済状況の悪化及び市場規模などにより、販売先という側面ではなく生産地という観点から韓国事業を見つめ直し、1990年に韓国三正産業(後の佑普機械)との間で冷凍スライサーの製造ライセンス契約を交わすに至ります。しかしこの契約も佑普機械側との方針の不一致等が要因となり、1997年には韓国厚地工業とのライセンス契約に変更となります。

天津芝華とのライセンス契約
〈 天津芝華とのライセンス契約 〉

中国では競合他社より遅れた事業展開となりましたが、1990年代の初頭より熾烈となった国内での価格競争も背景に生産拠点として着目し、1993年には天津芝華とのライセンス契約を開始しました。これは卓上スライサーの生産を主力に中国国内での代理店開拓も進め、まさしく製販両面での事業展開となりました。その後、天津芝華との合弁の話は未完に終わりましたが中国事業においては新たな転機が訪れます。

北京渡邊英華食品機械有限公司 設立
〈 北京渡邊英華食品機械有限公司 設立 〉

それは「河北省琢州市で研制という会社が、ワタナベスライサーに酷似した製品を生産・販売しているらしい」との中国国内の代理店関係者からの情報が元でした。実情を確認すべく日本から現地へと赴いたわけですが、結果的にこれがきっかけとなり、1999年にこの研制との間で合弁契約が交わされます。同年8月には『北京渡邊英華食品機械有限公司』が設立されるに至ったのです。(※「昨日の敵は今日の友!?呉越同舟、合弁立上げの秘話」はこちら

渡邊食品機械(河北)有限公司 落成式
〈 渡邊食品機械(河北)有限公司 落成式 〉

河北工場の立ち上がりについては、ひとまず生産機種は卓上スライサーのみとシンプルなものでしたが、中国との就業体系の違いや商習慣・文化の違いにより想定外の出来事の連続で運営は困難を極めました。しかしながら先達の方々の尽力により徐々に生産台数及び機種を増やしていき、販売展開にも注力していきました。その後の代理店開拓により、2005年には上海にて販社の『渡邊食品機械販売上海有限公司』を独資で設立。翌年2007年8月には、河北工場を同地の開発区工業団地に新設移転しました。

その後中国経済は急速に発展し、めまぐるしく変化する状況に対応する必要を受けて当社の体制も変革を余儀なくされます。それまで製販分離政策をとってきた中国事業を2015年に上海の販社と河北の生産拠点と統合、代理店の成長や日本からの輸入機増加などの対応も含めて更なる効率化を計りました。2016年より、渡邊食品機械(河北)有限公司を本社とし、上海分公司、以下沈陽、北京、青島、深圳、成都と従来の営業所も併せて一本化となり現在の形へと至ります。

真空包装機メーカー HENKELMAN
〈 真空包装機メーカー HENKELMAN 〉

さて舞台を欧州に戻しますが、1990年代以降もIFFAへの視察は継続して行っており、そのつてで1992年にはドイツの刃物メーカーGB社へ丸刃の製作依頼を行うことになります。それがきっかけとなり、現在でも冷凍スライサー、卓上スライサーの刃物はGB社のものを採用し続けています。また1995年には真空包装機メーカーであるHENKELMANと出会います。真空包装機に関しては当時既にコンパックというブランドで日本国内にてOEM生産をしていましたが1999年、OEM先との契約が切れることもあり、HENKELMANとのOEM契約交渉を開始します。
当時からHENKELMAN側もアジア市場への展開を模索していたこともあり、2000年よりコンパックブランドはそのまま継承しHENKELMANとのOEM契約が開始されました。それ以降も引き続いてIFFAには必ずワタナベグループとしての視察団を企画し派遣を続けていますが、EUとなった欧州経済圏では多くのメーカーの統廃合、M&Aなどがなされ、業界再編の動きが非常に激しい状況が今日でも続いています。

タイの展示会にて
〈 タイの展示会にて 〉

東南アジアの展開においては2007年から2年間、シンガポール事務所を立上げ、東南アジアにおける代理店育成企画を推進。シンガポールを拠点に、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナムなどの代理店に対し、製品説明会、メンテナンス研修の他、契約体系の整備を進めて行きました。また、北中南米においても2000年代中盤より、単発的な案件が増えてきたのをきっかけに特にカナダ、アメリカ、メキシコ、チリなどの代理店に対し、同じく製品説明、メンテナンス研修の他、定期訪問を実施し代理店育成を推進し続けてきました。このような様々な活動を経て、弊社の輸出売上高の推移は2000年代初頭から比較すると約5倍となり確実な伸びを見せているのです。

2016年 ドイツIFFA 展示会ブース
〈 2016年 ドイツIFFA 展示会ブース 〉

この先日本では人口減少が進んでいくとみられますが、世界の人口は逆に増加傾向にあり、更なるグローバル展開は避けては通れません。その為それぞれの国の食文化に適合した機械の開発は必然となりますが、それ以上に国際安全規格が大変重要な前提条件となってきています。ISOやHACCPなど食の安心安全にかかわる認証規格のみならず、E-HEADGE等が注目されているように、機械の安全面に関して世界基準の規格を満たした製品開発が既に必要となってきています。

そういった背景から当社でも欧州のCE自己宣言を付した製品を送り出すことになります。2016年には実に37年ぶりに(創業以来初の当社単独にて)ドイツのIFFA展示会へ「チョップカッターヴォルテックCE仕様」を出展します。様々な情報がグローバルに展開されている現在、IFFAへの出展は欧米市場への再挑戦のみならず、アジア、オセアニア、中南米など、それぞれのローカルマーケットへの情報発信をする狙いがあります。

2016年 ドイツIFFA 展示会場
〈 2016年 ドイツIFFA 展示会場 〉

世界にグローバルマーケットなどというものが具体的に存在しているわけではありません。ローカルマーケットの集積がグローバルマーケットと呼ばれているだけでしょう。各地域それぞれのローカルマーケットに、自分たちのビジネスモデルをいかにして適合させていくか?
冒頭に述べましたように、先見の明をもって時代を先読みし、戦後の復興最中の日本にあってスライサー開発を始めたフロンティア精神。これこそが当社の原点といえるかもしれません。

創業80周年を迎え、この先の自社製品においては国際安全規格を推進し、営業展開においてもこれまで以上にローカルマーケットを大事にしていきながら次の節目である100周年を身近な未来と認識し、まさに「100年企業」を目指して、この海外展開ヒストリアを皆で一緒に紡いでいきましょう!!